批評のジェノサイズ サブカルチャー最終審判感想

本当は軽音部!のレヴューでもやろうかなと思ったわけですが、

なんかいろいろおもに俺の精神力的な意味での諸事情により、
中止にして宇野常寛更科修一郎の新刊のことでも

というわけで昨日は大学が学園祭だったので、
本屋に行って批評のジェノサイズなる本を買ってから、
部屋にひきこもっていました。
驚異のルサンチマンっぷりですが、僕は元気です。

批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判

批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判

とりあえず二時間くらいで読んだのですが
現時点での感想でも書いてみます。

はっきり言うとこの本は宇野さんだけでも
更科さんだけでも成立していない本だと思う。
だからといって互いのいい所が出ているというのでは決してなく、
むしろお互いの悪いところがどちらも前に出ている気がする

じゃあ、何が面白いのかというと
ある意味で東浩紀大塚英志『リアルのゆくえ』

的な
面白さといってもいいかもしれない
といっても二人は別に喧嘩しているわけではない
ただ、単純に温度差があるだけだと思う
その温度差が宇野さんの言説を相対化させながらも特徴を際立たせている

まず、目につくのは二人の語り方の違いである
宇野さんが三言に二言くらいの割合で(笑)を入れるのに対して
更科さんは全くといっていいほど(もしかしたら一度も?)、
(笑)を使っていないということである。
ここからもわかるように常に宇野さんが一人で盛り上がっている感が
全体として見える。

はっきりいって内容自体は『ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

と連載時期も被っていたせいか
基本的には変わらず、語り口も宮台を彷彿とさせる感じの
叩きっぷりではっきりいってかなり食傷気味だ
さらに一昨日、ゼミの文献として発表しなければならないことも
あってゼロ想の方を読み返していたこともあって
まるでエンドレスエイトを八回見せられているような気分になった
しかし、それで盛り上がるハルヒ=宇野を
冷めた目線で見る長門=更科という構図になっていると
思うと意外と面白く読めた
ただ、こんな腐女子でも世界で一人しかしないような
特殊な妄想をしていても仕方がないので
少し話を戻そう、俺

更科はただひたすら批評に絶望したということを繰り返しており、
宇野はそんな腐った批評は変えていくべきだと主張している。
舌鋒するどく、鼻息荒くレイプファンタジー批判などを展開する宇野に
対して更科は連載の最終回まで終始冷めきっている。
個人的に一番面白かったのが連載初回にあたる部分。

宇野 多分そこが僕と更科さんの一番の違いですね。(中略)要するに、僕と更科さんは現状分析では一致するけれど、ゴキブリ駆除の方法論が対極的なんですよ。片や隔離政策、片やじゅうたん爆撃。(後略)
更科 ゴキブリにだって人権はあるよ。だって彼らから見ればオレも論壇というタコツボに潜むゴキブリだからね。居心地はマジ最悪だけどね。p26

他の間違っている奴ら(ゴキブリ)を駆除すれば、批評はよくなるという宇野に対して、俺もお前も結局ゴキブリだよ、というスタンスを更科は終始崩さない。そして連載最終回でももう一度更科は繰り返している。

更科 批評というのは究極のお節介だから、やればやるほど小石がポコポコ飛んでくる。(中略)結局、批評はすべて何かしら党派性の産物でしかない。で、最後に残ったこの連載以外、批評の仕事はすべて整理していたので、これで批評家「更科修一郎」は廃業です。そして、一年間のご愛読ありがとうございました。p271−272

批評というのはすべからく党派性の産物であり、この仕事も批評であったというしめくくりである。
そしてそこからは抜け出すことはできない。
これは宇野常寛の暴力に対する安全な自己反省だろうというレイプファンタジー批判が
宇野自身の暴力性自体を()においてしまっているという問題にも通じる。そして宇野さんはこのことにおそらく自覚的なのだろう。
まさにレイプファンタジー批判というレイプファンタジーである。
だが、更科のような元も子もない言い方はもう廃業を決めている人間にしかできないのかもしれない。
これはある種、未来を諦めている。
だけれども批評って結局レイプファンタジーでしょ?という更科の批判(遺言?)は考えていかなければならない。
その問題と向き合うことで初めて「考えたい人のための批評」にたどり着けるのではないだろうか。

更科だけなら単なるニヒリズム、宇野だけなら食傷気味
二人の温度差によって生まれた本だったと思う。