なんとなく前に書いた文章でもさらしてみる

何かたまにはマジメなことを書こうと思ったけど
書いている時間がなかったので
二学期の初めにゼミのレジュメのコメントで書いた文章をはってみる
文体とか改行もあんまりブログ向きじゃないかも
ちなみに文章中に出てくる本書ってのは心理主義化する社会

です
参考文献をどうつかったのかとかは自分でも思い出せない

フーコーは王権や神権政治が生きていた時代の外部から「従わなければ殺す」というような命令を行う権力である「死―権力」とし、それと対比する形で王権以降に生まれてきた内部から個々人の生に積極的に介入するような権力を「生―権力」と名づけた。そしてその一例としてあげた権力がいわゆる「規律訓練型権力」である。
ミシェル・フーコーの言う「規律訓練型権力」の一つの特徴は、フーコー自身の「subject(主体)になるということはsubject(服従)するということだ」という言葉に現れている。「権利を享受するには義務を果たせ」というしばしば何気なく耳にする主張にもこうした権力は見て取れる。つまりこうした権力は特定の外部主体が掌握して命令するような権力ではなく、その集団でそれぞれの「役割」に従属する「我々」が主体となって構成する権力なのである。
 そして、その権力は「社会」の内部と外部を切り分ける権力でもある。そしてこの権力に従属しないものは社会の外部として扱われ、一方では監獄などで再―訓練がなされたり、心理学的知識などによって社会にふさわしい「健康な」人間として訓練される。
 フーコーが『監獄の誕生』で提示した例に一望監視(パノプティコン)型の権力というものがある。この権力は監獄を一目で監視できる塔を立てて、監獄の中からはその塔の様子は見えないようにするというものである。こうすることで囚人達は「見られているかもしれないし見られていないかもしれない」という不安を抱き、たとえその塔の中に実際には誰もいなくても行動を正すようになる。自己の中に他者のまなざしを内在化させるのである。
 この一望監視型権力で真っ先にイメージされるのは1948年に書かれたジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』であろう。この小説の中ではテレスクリーンという監視装置があらゆるところに置かれ「ビッグ・ブラザーがいつでもあなたを見守っている」ことでそれに逆らわないような身振りを自然にすることが強制されているのだ。ただこうした規律訓練型のモデルというのは次第に後退し始め、本文(p53-55)でも言われているようにポストモダンでは他の権力がせり出してきている。
 「世界は美しくなんかない。そしてそれゆえに美しい」という一文から始まる2000年から連載を開始した『キノの旅』というライトノベルがある。この物語は旅人のキノがエルメスというしゃべるモドラド(バイクみたいなもの)に乗って様々な国を旅していくというもので一章完結型の話である。この物語の中に出てくる国はどの国も「多数決の国」や「人の痛みが分かる国」など、ある単一のイデオロギーに染まった国で住民達もそのイデオロギーに規律訓練されている。しかし、この規律訓練された一つの国は「大きな物語」が崩壊した後の我々の目には滑稽なものとしか映らず、むしろ主人公であるキノたちの態度に共感してしまう。
キノたちは様々な国に滞在するが、その滞在は三日間までと決めており、その国で起こっていることに基本的にはコミットメントしようとしない。これはその国に規律訓練され(=イデオロギーに染まら)ずに主体化しないためである。こうした視点から冒頭の文を眺めてみるとキノは個々の国に閉じこもったそれぞれの世界は美しくない世界であると感じているがそうした世界を見て廻り相対化することで様々な世界の美しさを感じているのだ。そして実際の我々の世界というのはこうした単一のイデオロギーに染まった世界であるというよりはむしろ複数の重層的な世界に属している。しかし、これは同時に規律訓練型の権力がある種の限界を示しつつあるということでもある。
 我々は現在複数の世界に属している。学校の例でもあったように今までは単一的な空間であった学校自体も複数性を帯びるようになっている。さらにネット・学校・自宅とそれぞれ違った共同体に所属している。政治においてもローカル/ナショナル/グローバルと多層的な所属をしている。ここで出てくる規律訓練が限界に来るという問題はシンプルである。「従属(subject)することで主体(subject)になる」といったときに我々は何に従属して何の主体になればいいのかわからなくなるという問題である。
 こうした限界の上でせり出してくる権力について見る前にローレンス・レッシグが『CODE』の中で提起した人の行動を決定する四つの要因が参考になる。それは「法」、「規範」、「アーキテクチャー・CODE」、「市場」である。
 従来の規律訓練型権力は「法」や「規範」において人の行動はコントロールされていた。簡単に言うと「好ましくない行動だからこのような行為はしない」といって行動を律していたのである。
 これに対して「アーキテクチャー」「市場」は「好ましい、好ましくないに関わらず出来ないからしない」というものである。「アーキテクチャー」というのはセキュリティ型社会におけるバイオメトリクスや卑近な例で言えばtaspoをイメージしてもらえばいいだろう。18歳未満であるから「買ってはいけない」のではなく、物理的に「買えない」のである。
 この前者から後者への移行が東浩紀のいういわゆる規律訓練型権力から環境管理型権力への移行である。この権力の元では包摂よりも排除の原理が働くようになり、人間的管理よりも動物的に管理されるようになる。しかし、ここではこれ以上そこには立ち入らず現在限界に達した規律訓練型権力が残存していくとどうなるのかについて考察する。
 どう規律化されていいかわからない状態で従来的な規律訓練型権力が発動されるという状況を想定したとき大澤真幸が言うカフカの『審判』における掟の門型の権力が想起される。『審判』はスターリニズムの寓話のような話でKはある日突然何の前触れも無く裁判にかけられる。それがどんな裁判で何の裁判なのか彼には全く知らされずないまま、彼は窮地に追い込まれていく。自分がどの共同体の主体であるのかわからないまま、今までの規律訓練型権力が残存するとこのような不安を感じてしまう。
 また、勝手にある共同体の主体になるということ自体が現代では困難な問題である。大きな物語なき世界で特定の価値観を振りかざす問題点は『デスノート』の夜神月を想起して貰えばよい。夜神月は何の根拠もなく「望むべき新世界」の神を目指してあらゆるものをかなぐりすてて奔走する。しかし、この「望むべき新世界」とは果たして誰にとって「望むべき」であるのか。夜神月本人だけが望んでいると言うのであれば話は簡単なのであるが月は決して「自分が望んだ世界」であるとは言わない。どこかに守るべき規範があり、その全体性を自分が最も代表すべきものであると信じているのである。こうして無根拠に全体性を代表して規律を振りかざした結果、最も強力な規範の逸脱者となってしまうのである。
 実際にこの問題は現実のレベルでも二つの領域で起きている。一つは「道徳の復活」を叫ぶ俗流若者論的な考え方である。「大きな物語」なき中で自分達の時代のものを絶対的な規範として押し付けるのはある意味で夜神月的な感性であるといえるだろう。もう一つ、自分達の「正義感」を押し付けてブログを炎上させる「善意の人」の中にもこの夜神月的な想像力が見て取れる。ポストモダン化された世界で「道徳」を考えていくことは想像以上に困難な問題である。
コメント部分参照文献
東浩紀「情報自由論」2001年
東浩紀大澤真幸自由を考える』2003年NHKブックス
アントニオ・ネグリマックスハート『〈帝国〉』
大澤真幸ナショナリズムの由来』2007年講談社
時雨沢恵一キノの旅』2000年電撃文庫
鈴木謙介『ウェブ社会の思想』2007年NHKブックス
ジョージ・オーウェル『1984年』1972年ハヤカワ文庫
フランツ・カフカ『審判』1966年岩波文庫
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』1977年、新潮社