思想地図第二号発売したみたいですね。というわけで声優の声に関する論文を適当に晒してみる

NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション

NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション

アマゾンさんによると今日発売みたいなのですが
さっき大学の一学書籍部と中央の書籍部に買いにいったら無かったのですよ
というわけで(どういうわけだ)
http://www.hirokiazuma.com/archives/000446.html
ここに書いている応募のあった声優の声に関するプチ公募論文に応募して
落ちたりしていたわけです
で、公開自由ということでなんかずっとワードに
寝かしとくのもなんなんで
この機会にはっときます
といってもかなり今見ると
色々と変な感じです
とりあえずほっちゃんに関する部分の
意見はちょっと今の段階で変わってたりします

まあ、とりあえずそのまま全文コピペ

題名『二重の名前―アイドル声優の系譜学』
1序・声優の声論の不在

1−1声優論=アイドル論という現実
アニメなどを批評した本は現在、山のように出ているがその中に「声優の声」に関して論じたものは数少ない。社会反映論にしろ、表現論にしろ出てくる固有名はキャラクター以外では監督やプロデューサーの名前だけであり、声優の名前は驚くほどに出てこない。仮に出てきたとしても固有名として出てくるだけで、その人について語られることはほとんどない。
では声優はアニメにとって重要でないのかというとそんなことはない。実際に今、比較的ライトなオタクたちの間では監督や原作者よりも声優の名前の方が多く飛び出す場合が多い。では、なぜ声優を論じたものはこれほど少ないのであろうか。
 それはまず第一にストーリーなどの物語に組み込んで論じることが 困難であり、演技論などに声優を巡る言説は回収されてしまってきたからである。そして声優を批評したものが少ないのには、声優がアイドル化しているということも理由としてあげられる。
先程の「声優の声」に関して論じた本は少ないといった発現に違和感を感じた人は多いかもしれない。確かに現実には「声優」に関した本などは色々と売られている。声優専門の雑誌も存在する。しかし、そのほとんどが声優ファンのために声優が作品や自分の日常などに関して語ったファンブックか 声優とはこういうものだから声優になるにはこのようなトレーニングをすればよいという「声優になるには」シリーズばかりである 。

萌え萌えジャパン』はオタク系の評論に関しては珍しく声優に関して一章を割いて論じられている。そこで1970−80年代の声優ブームに関して軽く論じた後、90年代からのアイドル声優ブームが論じられているが、両者の間に明確な断絶線が引かれているように感じる。アイドル声優に関して堀田は、声優自体にも人気が出るようになったといって90年代後半からの営業戦略に関して論じている。しかし、ここでの語りはただの客層の特殊なアイドルについて語っているのとそう大差はなく、アイドル声優がただのアイドル論として語られてしまっているのである。声優という職業の特殊性とアイドル声優というものが断絶して論じられており、これでは声優に関して語っているだけで「声優の声」を巡って論じられているとは言えないのだ。(もちろん、この本では声優について語っているだけであり、批判足りえてはいないのだが。)
 つまり声優に関して論じたものが少ないというのには、声優がただのアイドル的に語られてしまっているか昔ながらの声優について語られているかであり、両者を連続的に並べる現在の「声優」に関して論じたものがほとんどないという意味が込められている。

1−2「声」論
一方、「声優」に関するよりははるかに多く「声」に関する批評は存在している。ただ、この「声」に関して論じられているものにはある限界がある。「声」に関して論じられているものはまず大きく分けて「声」を「言語」として論じているものと「音」として論じているものがある。
「声」を言語として論じるというのはどういうことだろうか。それはフランス現代思想などにおいてしばしば見られたもので書かれた言葉(エクリチュール)と話される言葉(パロール)について語られる文脈においてなされたものである。しかし、この議論においては声というものはエクリチュールパロールの差異において意味を持つものである。つまりこれは「自己/他者」の「声に出された」言葉であるということだけが問題であり「どんな声であるか」ということは問題とされていないのである。「声優の声」に関して論じる上ではあまりにも一般的な声に関して語られすぎているのである。つまり、こちらでは「声優」について語ることが不十分なのである。
これとは違い「声」を「音声」として論じるものでは、さらにその音を「物」として論じるのか「音声」として論じるかの二つの語りがある。
「声」を「物」として論じるというのは、「科学的」に声を論じるということである。声の高さ・大きさはどれくらいかなどを定量化して、グラフ化して声を分析することは出来る。しかしこうした分析はその声が「どんなもの」かを論じたものであり、この分析からは「声優の声」とはなんであるかという問題に辿りつくことができない。
また、記号化できない「声」に関して語る際に「言説としての声」と区別されるような音声として、声のきめをロラン・バルトのように聞きとった言説も存在する。こうした傾向は『初音ミク』の登場によってより増えてくる事態であると思われる。だが、声優がアニメにあてる声をそのまま音楽と同じように分析することには抵抗を感じる。
 もちろん声優が発する「声」は「音」であったり「言葉」であったりするということは間違いではないのである。しかし、間違いがないからといってこの視点からでは「声優の声」に関して論じるには不十分であると思う。
1−3声優の声に関して論じるとは
本論はそうした「声優」を論じたものや「声」を論じたものを目指すのではなく「声優の声」に関して論じることが目指される。今まで多くの場合、この両者が分割して論じられてきたのである。
 その両者の分割を考える前にまず、「声優」という職業は一体、何であるのかということにそもそも立ち戻って考える必要がある。 俳優と声優の違いは自分の身体で演技をするのかしないのかである。 彼らの仕事は当初は大きく分けて三つに類別することが可能であった。
①洋画の吹き替え
②ナレーション
③アニメーションである
 ①は、自分ではない俳優に日本語で声をあてる仕事である。別の身体に声を付与するという役割がこの仕事にはある。
 ②は、天の声と呼ばれるものであり、身体なき声として表象する。
 ③の仕事はアニメーションのキャラクターに声を与える作業である。仮構された身体に声を与えるもので、この仮構された身体を通して声優の声は消費されてきた。これが仕事の量としてはどうあれ、声優と聞いて一番最初に思いつくものである。
 ただこの声を与えるという仕事がいかなる意味を持つかということを定義づけようと考えてみてもあまり意味がないように思われる。単一の抽象的な定義に当てはめようとすると「声」論にいきついてしまってその結果、「声優」というものの考察に考えが尽くされないからである。また「声優」という言葉が指し示すものが次第に変わってきており単一の定義に当てはめることがそもそも出来ない性質のものであるということも言える。どのように声優に関して論じるのかの素描を以下では行う。
そもそも身体なきものに声を与えるとはどういうことだろうか。「他者の声」はロラン・バルトが言うように「彼ら」が「あなたに向かって話していますよ」ということを示すものである。ただ声優が声を演じたキャラクターに関して考えてみるときに大きな疑問が生じてくる。「彼らとは誰なのか」であり、「あなたとは誰であるのか」というものである。ここでいう「彼らとは誰なのか」というのは「彼ら」を指すものがキャラクターなのであろうか、それともその声を演じている声優であろうかというものである。「あなたとは誰なのか」もあなた(=視聴者)なのか語りかけている対象のキャラクターであるのかというものである。しかし、このどちらの問いに対しても単一の定義をいきなり提示するということは出来ない。
これらの問題を念頭におきつつ、まず何度かあった声優ブームとその代表的な「声優」に焦点を当ててそこから見える消費のあり方をみながら「声優の声」のそれぞれの時代の性質を見てみる。ここでとりあげる「声優」はcv(キャラクターボイス)を当てることを主な役割とした声優、海外に紹介される際にvoice actorではなくseiyuuと表記されるようなものを指す。本論では80年代、90年代前半、90年代後半の女性アイドル声優ブームを取り上げる。声優がキャラクターを演じるものであるということに留まるレベルであれば比較的容易に分析可能である。しかし「アイドル声優」というものまで考えるとそうした分析では汲みつくせないものが残る。しかし、実際には現在声優と言われて名前があがるのは大御所かアイドル声優と呼ばれるものである。これを無視して「声優の声」に関して語ることには大きな違和感が残る。そこでここでは「アイドル」であるということと「声優」であるということをなるべく一つの延長戦として論じることを試みる。そしてこのそれぞれの時期の違いを記述することによって「声優の声」の受容のされ方の変化をとらえる。
そうして浮かび上がってくる変化を踏まえた上でゼロ年代ニコニコ動画などを中心とした声優を巡るいくつかの新たなムーブメントを見ていくことで「声優の声」の需要され方の新たな局面を分析することを試みる。

2声優ブーム
2−1朝倉南と日高のり子(第一次アイドル声優ブーム)

1980年代の声優ブームで代表する人物を一人あげるとすれば日高のり子があげられるだろう。彼女が声優として一躍有名になったのは『タッチ』(テレビシリーズは85−87)の浅倉南というキャラクターを演じたからである。
少なくともタッチがテレビシリーズを続けている間は日高のり子に対する認識はほとんどが浅倉南を演じた女性声優というものであった。彼女の声は彼女が声を与えた朝倉南というキャラクターを通して認知されるのである。実際に彼女は『タッチ』放映中に「浅倉南」として『南の青春』(85)、『南風に吹かれて』(86)、『Touch in Memory<浅倉南>』(87)アルバムを三つ出している。
日高のり子がキャラクターに大きく縛られているというのは2004年になってオールナイトニッポンで日高が一夜限りのパーソナリティをやった際のタイトルが『浅倉南のオールナイト日本』であったということからも見て取れる。
日高のり子の声の消費のされ方は朝倉南を介して伝わっていたのである。ここで大塚のいう物語消費論的な枠組みを援用することにする。まず大きな物語としての浅倉南というキャラクターがあり、日高のり子という声優はそのキャラクターに付属する声として消費されているのである。そこでは日高のり子がどんなことをやっても朝倉南をやっている人がこんなこともやっているといった消費のされ方をしているのである。だから日高のり子の歌を消費する際には浅倉南の歌として聴いていたということが想像される。

2−2イタコ声優林原めぐみ(第二次アイドル声優ブーム)

1990年代の声優ブームを語る上で必ず語らなければならない声優は林原めぐみである。特に深夜アニメがなかった時代には夕方アニメの顔であり、自身が主演するアニメの主題歌も多く歌っていた。『スレイヤーズ』シリーズのリナ=インバースなどのアッパー系の元気娘的な声がメインであったが、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイを皮切りに感情の起伏のとぼしいクールな少女系の役もこなすようになった。また現在も続いている『林原めぐみの東京ブギーナイト』や『林原めぐみのハートフルステーション』などのラジオでの活動も人気を集めた。また、スレイヤーズnextの主題歌『Give a reason』はキャラクター名などの入っていない声優名義で出したシングルでは現在でも歴代一位の売上げを保持している。
林原めぐみは一部のファンから自身がオープニングとエンディングを歌った『シャーマンキング』において演じたイタコの恐山アンナになぞらえて「イタコ声優」と呼ばれ、本人もこれを自称している。自身の書いたエッセイなどでの発言からもそうしたイタコ声優としてのキャラクター付が見てとれる。

私は、番組が終了することを、「キャラが眠る」と表現します。再び同じキャラを演じるチャンスに出会うとき「キャラを起こす」訳です。
私の心の置くには、本当に沢山のキャラの声が眠っています。コールドスリープ状態のキャラから、今にも動き出しそうなキャラまでいろいろ。
林原めぐみ『なんとかなるなる』1997年)

このキャラに関する言説から90年代における彼女の圧倒的な人気を持った特異性を考えられる。声優はキャラクターの媒介であるという考えである点では80年代と同じものであるが、この場合での声の伝わり方は逆転している。80年代ではキャラクターを通して声優の声が消費されていたわけだが、林原めぐみにおいては林原めぐみを通してキャラクターの声が消費されているのである。
ここで林原めぐみの声の消費のされ方を整理するために伊藤剛が提唱した「キャラ/キャラクター」の図式を参照することにする。伊藤の定義は以下のようなものである。
「キャラ」とは固有名でなざされることによって(あるいは、それを期待させることによって)、人格・のようなものとしての存在感を感じさせるものであり、「キャラクター」とは、「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や生活を創造させるものと定義できる。(伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』p95−96)
伊藤の定義は、漫画だけに限定してなされたものであったが本人も『コンテンツの思想』の対談などで述べていたようにそれ以外の分野でも使うことができる図式である。この「キャラ」という概念はプロトキャラクター的なものでキャラクターに内在したものであり物語の外部においても存在することが可能であり、固有名によって同定されるという性質を持つ。この性質を使ってこの林原めぐみの声に関する問題を解いてみたいと思う。ただ、ここでは伊藤の厳密な定義やアニメのキャラクターと混乱する可能性もあるので「キャラ的声/キャラクター的声」という言葉に修正しながら使うことにする。
ここで私が行うのは林原めぐみの声を「キャラ的声/キャラクター的声」切り分けるという作業である。「林原めぐみの声」というのは林原めぐみという人間の発している声であるから当然林原めぐみの人生と付着したものであるという性質を持つ。こうした部分を「キャラクター的声」とする。実際にラジオ等で林原めぐみトークを聴くときに彼らは「林原めぐみの声」を通して林原めぐみの人生(のようなもの)をイメージする。しかし、それとは離れたところでキャラクターに声を当てるという部分の林原めぐみの声というものも存在する。こうした声は林原めぐみの人生というものとは関係のない次元で消費される声である。実際にリナ=インバースや綾波レイの声を聴くときに林原めぐみという固有名は思い出すが、そこに林原めぐみがどんな人生を送っているかということを考えながら聴くということはない。こうした部分の声を「キャラ的声」とする。
このように区切ることで、先ほどのイタコ声優の下りを理解することが出来る。キャラを起こすというのはどういうことかということを考えてみる。ここでいうキャラというのは林原めぐみとは別の物語(=人生)を持つ虚構的身体である。ここでキャラクターに声をつけるということは林原めぐみの「キャラ的声」が別のキャラに宿るということである。つまり林原めぐみの声を与えられたキャラというのは林原めぐみの二次創作的な役割を持つのである。
東浩紀の『動物化するポストモダン』の図式になぞらえるならば「林原めぐみの声」というデーターベースから綾波レイ、リナ=インバースといったシュミラークルとしてキャラが生産しているといってもよいのかもしれない。ここでは林原めぐみ林原めぐみの声を下ろすことが出来るというキャラクターとして存在している。ただこの萌え要素の保存されたデーターベースにアクセスしてキャラクター化できるのはこの場合林原めぐみ本人しかいないのである。

2−3堀江由衣を巡る冒険(第三次アイドル声優ブーム)

1990年代後半から2000年代初めに起こったアイドル声優ブームはこうした林原めぐみ的な特徴を推し進めたものである。その中で特に注目するべきアイドル声優は堀江ゆいである。
堀江由衣の演じるキャラクターはキャッチーなフレーズを持つ傾向があるということも特徴の一つとしてあげることが可能である。出世作である『To Heart』のマルチの「はわわー」などを初めとして『Kanon』の月宮あゆの「うぐぅ」『ひぐらしのなく頃に』における羽入の「あぅあぅ」などのそれ単独で萌え要素として成立するセリフがあるのだ。
こうした声優としての活動に加えて彼女のアイドル活動はとても特徴的である。彼女が2006年に行った『堀江由衣をめぐる冒険』というタイトルがつけられたライブツアーとそのツアーのファイナルを収めたライブDVD(図1)にはこの特殊な構造を反映したものである。このライブはストーリー仕立てになっている。そしてそのライブの構造は堀江由衣が声優であるという部分を考えると面白い。

(図1)
[rakuten:book:11816414:detail]
「急がなきゃライブに遅刻しちゃう」というセリフとともに堀江由衣の姿が映し出される。そんな彼女の足元に魔方陣が浮かんできてそれに吸い込まれるような演出がなされる。こうして異世界迷いこんでしまったという場面からライブは始まる。そしてステージはその異世界での冒険にそって展開される。そうしてライブのアンコールまで全てが終わったあとにスクリーンに「大変だ、遅刻しちゃう」といって現実の世界へと駆け出す彼女が映し出される。
(『堀江由衣をめぐる冒険』より)

ここで起こっていることを分析してみる。冒頭での堀江由衣アイドル声優としての堀江由衣である。ここでの彼女は「キャラクター/キャラ」の区分で言うとキャラクター的なものである。これに対して不思議の国に迷い込んだ堀江由衣アイドル声優というものではなく、虚構の世界に存在しているキャラとして表象されている。そして最後の場面で現実の世界へと駆け戻っている。そしてここで問題となるのは現実の世界へ戻るということ自体が虚構であるということである。実際に彼女が遅刻すると言っていたライブは今現在まで虚構の世界で行っていたものであり、すでにそのライブは行われたものであるからである。この構成によりライブに遅刻するといったアイドル声優としての自分もまたキャラであるという構造を示しているのだ。
堀江由衣はデーターベースとしての堀江由衣の声からシュミラークルとしてアイドル声優である堀江由衣をマルチや月宮あゆなどのキャラと同列に生産しているような構造が存在するのである。(もちろん、堀江由衣という身体がある以上完全なキャラとはなりえないが。)そして彼女のファンもキャラとしての彼女を消費するという仕組みになっているのである。


ニコニコ動画における新しい声優消費のあり方

3−1データーベース化しきれない声
ここで東浩紀のキャラ萌えに関しての記述を参照することにする。東によるとオタクたちの消費行動は「キャラクター(シュミラークル)と萌え要素(データーベース)の二重構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポストモダン的な消費構造」p78を持っているということである。
東の言うデーターベース消費には一つの問題がある。それは声優が萌え要素として登録されてしまった場合の限界である。東の言うデーターベースの中にその声優が含まれていた場合に林原めぐみに関したところで述べたように林原めぐみの声という萌え要素がデーターベース上に強い萌え要素として残っていてもそれをシュミラークルであるキャラクターに起こすことが出来るのが林原めぐみしかいないということである。
声優はある意味ではデーターベース消費の一つの限界として考えられる。それは二次創作が自由であるといいながらそこで作られる作品の傾向がマンガに大きく隔たっており、次に多いのがSSなどのノベルや音楽MADであることからも伺えることである。ここで確認しておかなければならないのは声優の声が萌え要素でなかったわけではないということだ。でなければドラマCDなどが売れるはずもないし、キャラクターソングなどの需要がこれだけあるということも説明できない。いくら声優を萌え要素として感じていたとしてもその声を記号的に再生産することが出来なかったのである。ツインテールや眼鏡などの記号を描くことは出来ても声を再生産することが出来なかったのである。声優の声は声優の固有名という情報であると同時に実際の声でもある。そして特定の声優の声という萌え要素はそのキャラクターや他のデーターベース上の萌え要素と強い接続性を持つようになったのである。こうして声優の声は萌え要素としてデーターベース上に登録されてはいるがキャラクターへと自由に往復させることができない(=仮想化しきれない)残余として残っていたのである。
こうした限界を踏まえた上でゼロ年代後半に主にニコニコ動画などで起こったいくつかのムーブメントを見てみるといくつかの転換点を見ることが出来る。

3−2声の多重性
個々の現象を分析する前にここまでになされた議論をもう一度整理しておく。
先程からデーターベースやキャラ/キャラクター図式を少し捩じれた使い方をしているが、それは声優の声を巡る問題が独自の複雑さを持っているからである。これは声優の名前の固有名とキャラの名前の固有名の二つの固有名の関係の特殊性によるものである。つまりキャラクターの水準から見た場合には声優の声というのはツンデレ素直クールなどの萌え要素のデーターベースに記録されたもので、そこから個々の固有名を持ったキャラクターというシュミラークルが出来上がると見ることもできる。声優がただこのように消費されているのであれば比較的簡単に論じることが出来るが「アイドル声優」について考えることが出来ない。
声優の声というものは同時に声優の固有名も持っているものである。声優を中心として見ると今度は声優の声自体が固有名を持ち二重の構造を持っているということに気づく。声優自身という身体に束縛された部分で消費される声と別の身体に移って固有名に宿り「人格・のようなもの」として消費される声の部分である。さらに複雑さを増すのは声優の身体自体がキャラ(脱―物語的なもの)とキャラクター(物語=人生に束縛されたもの)に分裂しつつあるのだ。
このような複雑な図式を整理するために声優の声に関して「キャラ的声/キャラクター的声」という図式を使ってきたのである。以下でもこの図式を元にニコニコ動画で起こっている現象を分析することを試みる。

3−3「声優の声」の声を求める
ニコニコ動画に見られる傾向の一つに「声優の声」の声が高い人気を持っているという事実がある。どういうことだろうか。具体的に二つ例をあげてみる。なおニコニコ動画には独自のバイアスはあるがここでいう人気とは再生数やコメントが好意的であるかということを考慮したものである。

3−3−1英語版アニメ吹き替えのレベルアップ?
アニメの海外声優のレベルがあがっていると言われる。ニコニコ動画などにおいても『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』の英語版が高い人気を集めている。しかし、ここでいうレベルとは何であろうか。演技のレベルといっているが彼らの支持を集めた理由は明確である。日本語版の声優の声に似ているからである。
実際に『らき☆すた』においては一人だけ元の声優と声質があまりにていない柊かがみの評価はあまり高くない。ここで求められているのはキャラクターのイメージにあった演技ではなく日本語版の声優の声を出すことが目指されている。声優の声とキャラクターの切り離しがあまり上手くいっているとは言えないのがこうした理由としてあげられる。そうして吹き替えをする側も明らかにキャラクターを演じるというよりは日本語版の声優の真似を意識していることが明らかである。

3−3−2「声優の声」の声を持つ歌い手
アニメ『涼宮ハルヒの憂欝』をニコニコ動画でタグ検索して出てくる動画で再生数が一番多いのは「勢いで組曲涼宮ハルヒの憂欝』を歌ってしまった」という動画である。 組曲涼宮ハルヒの憂欝」とは組曲ニコニコ動画」というニコニコ動画内で人気の曲を三十曲集めてリミックスした曲に『涼宮ハルヒの憂欝』のストーリーやキャラクターイメージにあったMADと歌詞を加えたという非常に二次創作的なものである。
そしてこの動画はnayutaという歌い手が組曲涼宮ハルヒの憂欝』を歌った動画である。nayutaは涼宮ハルヒの声真似が上手い女性アーティストでこの動画では涼宮ハルヒを始めとして様々なキャラの声真似をしながら歌っている。
こういった曲は他にもいくつもあるが評価の基準は歌が上手いかどうかではなくどれだけキャラクターの声を再現できるかというところにある。言うまでもないことであるが、キャラの声真似というのはそれを演じた声優の声真似である。

これら二つの例は声優の声が他の声優でも代替可能であるということを示すものではもちろんない。むしろキャラを形成する上でその「声優の声」というのが強力な要素として成立しており、それがキャラクターの声として成立しているからこそ成り立つものである。声優の声というのが萌え要素として機能しているがそれを自由に二次創作に組み込むことが出来ない。だから「声優の声」的な声を使った二次創作が代理物として高い需要を生み出すのだ。

3−4釘宮理恵の分裂
 現在、最も特殊な位置にある人気声優は釘宮理恵だろう。2000年前後から頭角をあらわしはじめ、今最も人気のある声優の一人である。『鋼の錬金術師』のアルフォンス・エルリックなどの少年役も高い人気を誇っているが彼女の人気を語る上では『灼眼のシャナ』のシャナや『ゼロの使い魔』のルイズなどのいわゆるツンデレという萌え要素を持つキャラを欠かすことが出来ない。このツンデレのイメージの強さからツンデレというのは釘宮理恵の声とセットになって萌え要素のデーターベース上に登録されているものも多い。
ツンデレ釘宮理恵の声というのは一つのパッケージ化された萌え要素として成立しており、それは通常のキャラクターを読み込む際にも釘宮理恵というキャラクターを読み込む際にも等価に適用されているといっていい。こうしたパッケージ性は「ツンデレといったらツインテール」「眼鏡といったら委員長キャラクター」といった接続性に近い程度には接続的である。
 こういった結びつきを見る上で最も適したものは「ツンデレカルタ」であろう。これは読み手である釘宮理恵が公募されてできた「あ」から「わ」までそれぞれの文字から始まるツンデレっぽいセリフを十分間にわたって読み上げるだけのものである。パッケージには一応少女のキャラが描かれているが(図2)おそらくほとんどの人はこのキャラには萌えていないように思われる。

図2
ツンデレカルタ
 これに類似した商品である「無限プチプチシリーズ」ではより徹底している。「ツンデレ」「幼馴染」「メイド」「妹」の4種類がありプチプチを押しているとそれぞれの萌え要素に合わせたいくつかのセリフを釘宮理恵の声でしゃべるという商品である。
 データーベースに登録された萌え要素というのは通常では単独で流通することができずいくつか組み合わさってキャラクターになることによって初めて流通しそれを分解して萌えるものである。この商品で消費者が萌えているのはそれぞれの萌え要素釘宮理恵の声の組み合わせである。これだけで独立したキャラとして流通することが可能になっているというところにこの特徴があるのである。
 『ゼロの使い魔−on the radio』という釘宮理恵がパーソナリティを務めるラジオが高い人気を集めている。これは『ゼロの使い魔シリーズ』という釘宮理恵がヒロインを務めるアニメのファンむけのラジオで男性主人公の役を務める日野聡と二人でパーソナリティを務めている。この動画についたニコニコ動画のタグに日野理恵というタグがある。しかもニコニコ動画上に上がっているほぼ全ての回にこのタグがついている。これはこのラジオの相手役である日野聡とのカップリングをしたものである。またこの日野理恵を辿ると8月31日現在200件の関連動画が存在しており、釘宮理恵関連の動画で最も再生回数が多いのは釘宮理恵日野聡に対して言った暴言集である(およそ60万再生)。そしてそれに関連したMADなどを見てみるとわかるがここでは釘宮理恵自体をツンデレとして消費しているのである。
ここでは<萌え要素釘宮理恵のキャラ的な声>というのがキャラの最少パッケージとして存在しており、それが個々のキャラクターに先立って存在している。そしてこれを元に個々のキャラクターは解釈される。そしてこのセットは釘宮理恵本人のキャラクターにも適応されて読み込まれているのである。

 ここまでニコニコ動画の例を見ながら論じてきたように「声優の声」というものは特定の萌え要素やキャラクターと強く結び付きつつある。声優の「キャラ的な声」の性質が強まっており「キャラクター的な声」が弱まっているのである。
4結論と今後の課題
 この文章を読んでお気づきだろうが論者はここまであえてある問題を避けてきた。それは初音ミク問題である。「声優の声」の論文という公募論文のタイトルを見たときに多くの人はこの初音ミクと声優の声の関係について論じられることを想像したかもしれない。しかし、比較しようにもこれまでに声優の声が論じられたことがあまりにも少ないので初音ミクと対応させて論じることが困難であると感じたからである。
 本論では声優の声がキャラクターの付属物であるという見方では論じつくせない問題としてアイドル声優に関して取り扱った。これまでアイドル声優に関して語られる言説の多くは「アイドルである」ことと「声優である」ということが分割して論じられてきたという問題がある。そこで本論の一つの目的としてこの両者を架橋しようということを試みた。
 この架橋をする際に生じてくる問題は「声優の名前」と「キャラクターの名前」の二つの固有名が絡みあって複雑化してしまうということである。ただキャラクターに声を与えるとうことだけで声優が存在するのであれば、声優の声はただの萌え要素として処理することが出来る。この場合は「声優の名前」という固有名にそれ以上たちいる必要がない。ただのアイドルとして論じる場合には今度は「声優の名前」だけが問題になる。しかし、アイドル声優に関して論じる場合には「声優の名前」「キャラクターの名前」の二つの固有名を巡る問題を考える必要がある。そして「声優の名前」に関して考える際には声優と声優の声の関係に関しても論じなければならない。
 本論ではそうした複雑さを意識しながら論じてきた。しかし、それは思いの外複雑な作業であり個々の論点に関しても十分な議論を尽くしたとは言い難い。更に「初音ミク」などのボーカロイドの問題と絡めるとより一層複雑化した議論になる。これは「声優の声」に関する論が整っていない段階ではとても論じることが出来ない。
あえて書き逃げ的に語るとすれば「キャラ的な声」の優越が絡んでくるような気がするが、本論ではこれ以上は論を広げずそれぞれの時代のアイドル声優論とその変化を記述することと、ニコニコ動画で起こりつつある新たな消費形態に関して指摘するだけに留めておくことにする。
参考文献
東浩紀動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』2001年、講談社
東浩紀編『コンテンツの思想 マンガ・アニメ・ライトノベル』2007年、青土社
伊藤剛テヅカ・イズ・デッド―ひらかれたマンガ表現論へ』2005年、NTT出版
月刊New Type編『キャラクターボイスコレクション女性編①』1994年、角川書店
佐々木敦編『(H)EAR−ポストサイレンスの諸相』2006年、青土社
スライエヴォ・ジジェク著 松浦俊輔訳『仮想化しきれない残余』1997年、青土社
ジャック・デリダ著・高橋允昭訳『声と現象』1970年、理想社
林原めぐみ『なんとかなるなる』1997年、角川書店
ロラン・バルト著・沢崎浩平訳『第三の意味―映像と演劇と音楽と』1984年、みすず書房
堀田順司『萌え萌えジャパン』2005年、講談社
参照コンテンツ
堀江由衣をめぐる冒険』2006年
林原めぐみのTokyo Bogie Night』
ゼロの使い魔on the radio』
ノン子とのび太のアニメスクランブル
参照サイト
ニコニコ動画』http:www.nicovideo.j