ひぐらしと『キャラ化する/される子供たち』

やたら長い文章をコピペしたあと長らく放置しすぎたので軽く更新

とりあえず新刊を買ったので紹介とそれを買って思いついた妄想でも

まだいまいち詰められていない気がする・そしてどっちかっていうとこれ竜騎士07インタビュー評じゃないかという
気がしないでもないけれどひとまず気にしないでおく

『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』

2009年6月に出た土井隆義先生(以下敬称略しちゃまずい気がするwけど略すのです)の新刊『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』が面白い。基本的には、『アキハバラ発〈00年代への問い〉』にのっていた文章をベースに膨らまされているという印象で、ほかにもいくつか授業などで聞いたことがある内容が多かったが一冊の本にまとまってみると違った印象を受けるものなのだなと考えたりした。
ケータイの圏外と自分のトライブ以外への想像力の欠如やキャラの概念をキーワードにアキハバラのKの事件などの犯罪を中心とした現代社会の諸問題を読み解いている。Kの事件は自分と同じ立場にありながらリアルが充実したものに対して向いていたという。そして自分の周りの人間関係には過剰にケアしあっていたことも指摘している。ここでは人間関係のトライブのタコつぼ化と自分のトライブの中のものとのコミュニケーションに過剰に気を使うようになっている様が描かれる。そうしたトライブ内の人間関係の衝突を避ける(やさしい関係)ために人間関係のキャラ化といった現象が起こっているのである。
このように順番に内容を要約してもいいのだが、短い本なのでその必要もないだろうから、この本を読みながら自分の脳内に受信された電波のことでも書こうかなと思う。自分の関心とも関係するのだろうが、この本を読みながら自分の頭の中をよぎっていたのは、少年犯罪の問題や現代社会の人間関係の具体的な問題ではなく、ゲーム『ひぐらしのなく頃に』であった。といっても、別に少年犯罪とひぐらしを短絡させるだとかそういう意図はもちろんのことない。考えていたのは、ひぐらしというのが昭和58年という世界観を下敷きにしていながらやはり現代的な作品なのだなということだった。(余談だが、宇野さんはひぐらしを評価しているのだろうか、していないのだろうか。『ゼロ年代の想像力』では触れられていなかったがどちらに評価していてもおかしくない気がする。)
ひぐらしの怖さとしてファウストのインタヴューで竜騎士があげていたことが、土井の論と親和しているように感じられたからだ。一般的にひぐらしは80年代という世界観が恐怖を引き立てているといわれるが、実はひぐらし前半部の恐怖というのはむしろ非常に現代的な恐怖なのである。引用をすると長くなるので省略するが、ギャルゲー的な世界観のお約束を逆手にとったところに『ひぐらしのなく頃に』の怖さがあるというものである。ギャルゲー的な世界観というのは一人称のボクの視点だけから世界を見ており、それを中心にキャラが配置されているというものである。これに関しては、例えばツンデレというキャラの属性を考えてみればわかりやすいと思う。ツンデレというのも諸説あるが(ちなみに誰かといるときはツンツンだけど二人きりになるとデレるという定義は絶対に違うとは個人的には思うw)、オーソドックスなツンデレキャラをイメージしてもらえばわかると思う。ツンデレというのは主人公の視点から位置づけられないと意味を持たない記号である。ツンデレというときに主人公以外にデレるということは基本的には想定はされていない。例えば主人公がいないところでのガールズトークでは、こうしたキャラはツンデレとしてのキャラを発揮できない。そこではその少女には別のキャラが割り当てられているはずである。しかし、ギャルゲーではひとまずこうした視点の固定化を行ってその少女はツンデレということにして話を進めていくものである。そして、固定化した視点で見ていたときにキャラが自分と接していない部分で勝手に動いていくということにひぐらしの怖さがあるという。つまり、自分と接していないときのキャラというのがわからないから怖いのである。ひぐらしではクラスメートの同じ部活の女の子というキャラが実は自分の知らないところではそうしたキャラとして動いていないという恐怖である。別の関係(転校したてで圭一にはわからない村での関係)においては全然違う役割を各少女たちが持っており、自分にはそれがわからないから圭一は鬼隠しにおいて疑心暗鬼になるのである。東浩紀氏がいつかのブログで書いていたと思うが(確か再移転前)、我々は他者をキャラとしてしか捉えられなくなっていることならではの怖さなのである。土井の本に戻るならば閉塞したトライブにあって自分のトライブの外への想像力が欠如していると同時に、トライブの内部の人間をキャラとしか捉えられないという世界にピッタリとした恐怖なのだと思う。