今更無駄に長いエヴァ論を書いてみた

さて最近忙しくて死にそうです、D.Nです
とりあえず俺がとっているゼミの一つの
年度末提出の
好きな映画を一つ見て
論じるというものがあったのでいまさらながら劇場版のエヴァ論を書いてみた
内容に関しては超既出のものの寄せ集めで無駄に長いだけな気がする
というよりも内容知らない人を前提に
エヴァの旧劇場版だけで書くとか無理に決まってるだろ、jk
でもとりあえずエヴァンゲリウォン新劇場版の公開日時が決まった記念に晒しておく

1初めに
1−1エヴァ現象
1−2キャラクター紹介
1−3テレビ版概略
2劇場版第一作『シト新生』DEATH編
2−1ヤマアラシのジレンマ
2−2物語を作ることの困難
2−3パッフェルベルのカノンと友達地獄
2−4こんなのアタシじゃない!
3補完前
3−1最低だ、俺って
3−2二つの補完計画
3−3母であることの断念
3−4庵野秀明のシャシンと五人の女性
3−5ボクを見てよ
3−6I NEED YOUというショウニン
4人類補完計画
4−1帰りたいと思ったのは嘘じゃない
4−2それでもやっぱりI need you
5結びにかえて―新劇場版に関して

1はじめに
1−1エヴァ現象
新世紀エヴァンゲリオン』は1995年の中ごろからスタートしたテレビアニメであり、全26話で制作された。視聴率こそ飛びぬけて良いものではなかったが、パソコン通信などのオンライン上を中心として、テレビの放送中から飛びぬけたクオリティを持った作品として評価されていた。しかし、最終二話でこれまでの伏線などごと、この「よく出来た物語」は全て放棄され、「自己啓発セミナー」のような終わり方をしたために大きな物議をかもし出すことになった。そして、そうした終りではない「真の終わり」として、劇場版が制作されるということが告知された。
劇場版「シト新生」の制作が告知されると、その結末に大きな期待が寄せられることになるが、その期待は大部分が裏切られることになる。この映画の前半部DEATHはいわゆるテレビシリーズの総集編であり、70分にわたるものであったが、テレビ・シリーズを見ていないものには理解することが困難な作りになっていた。そして、後半のRebirthでは、かなり早いテンポで話が進行していき、ヒロインであるアスカが敵との戦闘に入る場面までが、比較的ハイテンポに話が流れていく。そしてその場面に入る直前に、「私に―還りなさい」と、劇場版のエンディング・テーマである『魂のルフラン』が流されるのである。そして全ての謎は「次回の」劇場版で解決されるとされ、劇場版二作目の制作が告知された。(以下、この二作目をEOE1)と呼ぶ。)この終りには多くの反発が出たが、それでも劇場版はどちらも興行収入的には大きな成功を収めることになる。
とはいっても、映画の興行収入で比べると同時期にやっていたアニメ映画の『もののけ姫』に比べれば微々たるものであった1)。では、何が「エヴァンゲリオン現象」と呼ばれるほどのものとして評されたのであろうか。一つにはそれ以降の作品への「影響」という形で示すことが出来る。しかし、それでは当時の同時代的なブームを説明することが出来ない。この作品のブームの大きな特徴はキャラクター商品の氾濫と多くの「知識人」と呼ばれる人々がこの作品にレスポンスしたり、windows95が普及したことによって一気に規模の拡大したパソコン通信などで議論が展開されたということにある。
前者のキャラクター商品の氾濫に関しては東浩紀の『動物化するポストモダン』において詳しく論ぜられている。
後者に関して、同じく東浩紀の評論「庵野秀明はいかにして80年代アニメを終わらせたか」で論じられている。これに関しては少し詳しく見ておこう。
この評論は日本でアニメーションの批評は存在しなかったという挑発的な一文から始まる。それは二重の不毛さからくるものであると彼は指摘する。ある程度開かれているアニメに関する雑誌では作品の「紹介」などしか載せることが許されず、ある程度の識者はいるにはいるがそうした批評は過度に閉じられた場所でしか展開されないという二重性である。この閉鎖性は日本のアニメがクオリティの低いが開かれた「子供向け」のファミリーアニメとクオリティが高い(大人の鑑賞に堪えうる)が閉じられたマイナーなOVAなどの「オタク向け」のアニメに分断されていたということがあげられる。そしてエヴァの特殊性はどこにあったか。それは「オタク向け」を追及しながら広く需要されたことにある。ここにきて初めて「二重の不毛さ」から抜け出すことができたといってもよい。
東浩紀の評論「庵野秀明はいかにして80年代アニメを終わらせたか」に見られるようにエヴァンゲリオンは今まで閉じられていたアニメ批評を切り開いたという。心理学によるキャラクターや監督の精神分析やちりぢりに出てくる宗教用語を巡っての宗教学的考察やエヴァの世界観や主人公の碇シンジとリンクさせてオウムや酒鬼薔薇聖斗を論じた社会学者(大澤・宮台)なども出た
こうした「批評」があまりにも氾濫したということはある理由がある。それは斉藤環が『文脈病』の中で語った「エヴァはあまりにもわかりやすい作品」であり、「ボーダー的な作品」であるのでACなどが自分を重ね合わせる語りを生み出すものであるという。(もちろんそうした語りが何の意味もないものであると批判するつもりはない。こうした評論の中でも榎本ナリコ野火ノビタ「大人は判ってくれない」などの素晴らしい評論が存在する。)そしてあまりにもこのように多くのエヴァを語る言説は「エヴァを見ているといとも簡単に『現代思想』できてしまい」「それは結局閉じた箱の中で言説を生産しているにすぎない」というような上野俊哉の批判を生み出しもした。本論もこれを免れうるものではない。しかし、こうした語りの存在をしってはいたがリアルタイムでそれを追うことが出来ず、自ら生み出すことの出来なかった世代としてはエヴァンゲリオンのリメイクがなされるこの時期に「あえて」そう語ってみることになんらかの意味があるのではないかと思う。
本論で展開される読解は一つの原因によって生じた二つの困難という視点から映像を見ていくことにある。一つは、オリジナルをつくるということが困難な時代にそれでもオリジナルのものを作り出したいという監督・庵野秀明自身の実存的な悩みである。もう一つが、他人との距離のとり方がわからず、それによって自分自身というものがどんなものであるかということがわからなくなってしまうという思春期に特有の生きづらさである。この二つの原因に共通したものが共通となる体験の不在にあり、その不在を埋めることが可能かどうかということを問い続けている映画として読解していくことにする。
1−2キャラクター紹介
劇場版は、二作ともテレビシリーズを見ているということを前提にして作られた作品であるので、劇場版に関して議論を展開する前に、理解を助けるために、テレビシリーズのストーリーと簡単なキャラクターの紹介をしておくことにしよう。まずエヴァンゲリオンに乗ることが出来るチルドレンと呼ばれるパイロット達とその他、主要な人物何人かに関して説明する。
物語の主人公であり、サードチルドレンである碇シンジに関して解説する。14歳で、第一話で父ゲンドウに呼び出されるまでは、親戚の元で生活していた。その後、葛木ミサトの元で下宿することになる。第三のチルドレンとしてエヴァンゲリオンに乗ることを迫られるが、最後の使途の渚カヲルを殺してしまって以来、徹底してエヴァンゲリオンに乗ることを拒絶している。
 ファースト・チルドレンである綾波レイは、物語の序盤から謎に包まれた存在として描かれている。その正体は事故で死んだシンジの母親の碇ユイのクローン人間である。作中に初めに出てきたレイは二人目のレイで物語の中盤で命を落とす。そして劇場版に登場するのは三人目のレイである。
惚流アスカ・ラングレーはセカンド・チルドレンであり、ドイツ人とのハーフである。八話で初登場。プライドが高く、極度の負けず嫌いであるが、その理由は幼少期の優秀でないと母に捨てられてしまうという恐怖がトラウマとなっている。物語の中盤からシンジにエヴァの適正試験で抜かれたことをきっかけにアイデンティティクライシスに陥ってしまい、憧れていた加持リョウジの死をきっかけに半ば廃人状態になってしまっている。
葛木ミサトは29歳で、エヴァパイロットではないが、間違いなく主要なヒロインの一人。ネルフ所属の女性でシンジの保護者として一緒に住んでいる。八話以降は、アスカとも同居している。物語のヒロインの一人であり、15年前のセカンド・インパクトを体験して、そこで父を亡くしており、それ以来しばらくの間、失語症になっていたことがある。元恋人の加持リョウジに父親の面影を重ねてみてしまい、そのことに葛藤がある。加持の死後は、彼が追っていた人類補完計画の秘密を代わりに追っている。エヴァに乗ることで人を傷つけてしまうことを怖れているシンジを慰めるために肉体関係を誘いかけて、拒絶されている。
碇ゲンドウはシンジの父で、シンジが所属する組織であるネルフのリーダーである。実質的に彼がネルフのほとんどを独裁的に支配している。使途と呼ばれる怪物から世界を守りを担っている一方で人類補完計画という計画をネルフの内部には秘密裏に進めている。上部組織であるゼーレとともに人類補完計画を進めているが、両者の推進する計画の間には相違があり、両者の折り合いは今ひとつ悪い。
赤木リツコは、ネルフのエンジニアで、ミサトの大学時代からの友人である。ネルフのメインコンピューターであるマギ・システムを開発した赤木ナオコを母に持つ。母と同様、碇ゲンドウとの愛人関係にあり、そのことに関して複雑な感情を抱いている。
1−3テレビ版の概略
エヴァンゲリオンのTVシリーズ全体を通してシンジは「自分がエヴァンゲリオンに乗るのはなぜか」ということを問い続けることになる。エヴァンゲリオンは難解なストーリーであると一般に言われているが、この視点を切り口にして読解していくと、エヴァンゲリオンのテレビ・シリーズの一話から二十四話までは、非常にクリアな流れを持っている。しかし、25−26話においてこうした物語を放り出してしまう。我々は、このかなぐり捨てたということにこそ、庵野とシンジの困難を見てとることができる。そしてその困難に再び向かい会うために劇場版二作が作られることになるのだ。まずは、簡単にテレビシリーズの流れを以下に示すことにしよう。
シンジは、父であるゲンドウに呼び出され、エヴァに半ば強制的に乗せられる。初めは、エヴァに乗って「自分が傷つく」という恐怖から、エヴァに乗ることを恐れていたが、次第にエヴァに乗ることに肯定的になっていく(1−6話)。それはエヴァに乗っていれば、「誰かの役に立っている」、「誰かに認めてもらえる」という感覚を抱くことができたからである。そしてテレビシリーズの中盤では、こうして自己を承認したシンジが仲間とうまくやっていく様子が描かれ、登場人物たちの人間ドラマなどに焦点があてられている(7−12話)。しかし、TVシリーズの後半においてそれがゆらぎ始める。親友のトウジを殺しかけ、渚カヲルというせっかく出来た友達も殺してしまうことになり、アスカはエヴァの乗り手としてシンジに負けたショックをきっかけとして、廃人状態になってしまう。他者の承認を得ようとするために他者に合わせてした行為が、実は「他者を傷つけてしまうかもしれない」という恐怖に気づき始めているのである。そしてシンジは自分が何かをすると相手を傷つけてしまうと思い、自己の殻に内閉する(16−24話)。ここで従来のアニメでは、仲間などの助けを借りながら、こうした葛藤を乗り越えて成熟して闘っていくというようにストーリーが進展していくということが普通である。しかし、テレビ版の最終回はシンジの内面世界が描写され、そこでは「エヴァンゲリオンに乗るのはもう嫌だ」、「エヴァに乗らない自分」を認めてほしいという主張がなされる。そこで主張されているのは、「―する自分」ではなく「―である自分」を認めて欲しいというものであり(宇野,2008)、劇場版ではこの内面世界に対応する外面世界として描かれることになる。

2−1ヤマアラシのジレンマ
新世紀エヴァンゲリオン』には、様々な心理学的な用語が用いられるが、その中でも作品を解読する上で特に重要な概念となるのが、ショーペンハウァーから引用してきたヤマアラシのジレンマというものである。この概念は、ヤマアラシは冬の寒さに耐えきれることができないのでお互いに近付いて暖めあおうとするが、近づいてしまうと互いの棘で傷つけあってしまうので距離感が掴めないというジレンマを人間関係にもあてはめたものである。このジレンマは、とりわけ思春期によく見られるものであるとされる。
この言葉が、直接引用されたのはテレビシリーズの序盤のみであるが、この言葉が示す問いが繰り返し、劇中の人物に投げかけられている。碇シンジが学校での人間関係を上手く築けていないということを心配した葛城ミサトに、赤木リツコが引用したが、それに対してミサトは「無難」な返しをしている。「大人になるっていうことは適当に傷つかない距離を見つけていくことなのよ」というものである。確かに、この解答はある意味では一般的な解答であるが、実際にはそう単純な結論には落ち着かない。現にこうした発言をしているミサト自身が大人とはいいきれない人物として描写されている。
2−2物語を作る困難
このヤマアラシのジレンマを考える際に、いくつか考えておかなければならないことがある。そもそも何故彼らはこれほどまでに傷ついてしまうことを恐れ、それと同時に近付くことでの暖かさを求めるのであろうか。しかもこうした傾向は90年代から特に強まってきている。こうしたアンビバレントな感情の両極が強まっていく様をこの作品では描きだされているが、それを考察する上で、監督の庵野秀明が『新世紀エヴァンゲリオン』に対する解説をしたインタビューが考察の指針となる。
僕らの世代(60年代前半生まれ)の共通体験はテレビやマンガしかにと思うんですよ。それはしょうがないと思います。僕らより前には、全共闘や、お上に逆らってひどい目にあって、4畳半に引っ込んでフォークを歌う世代というのがありましたよね。その前の世代には圧倒的な共通体験として戦争と戦後があると思うんですよ。・・・だけど僕らには(TVという)「魔法の箱」の中にしか語るものがない。情けないんですけど、仕方ない。そこを認めたところから、スタートだと思うんですよ。(『NEWTIPE』1996年11月号)
この発言は、庵野エヴァンゲリオンという物語を作ることに対する困難さを語ったものであるが、そのまま登場人物やそれと同年代のコミュニケーションに対する不安にもあてはめることが可能な文章である。だから、これは当然のことであるが庵野よりも上の世代、すなわち共通体験がある世代には、このような不安感はイメージしにくいのかもしれない。だが、それ以降の世代の層にはかなりヴィヴィッドにこの感性が響いてしまったのである。これがある世代以降の世代に響いたのはなぜだろうか。
ここでのキーワードは「共通体験」の不在だ。これをより抽象的な言葉に置き換えるならば、リオタールが言う「大きな物語」の崩壊ということになるだろう。この絶対的な基準の崩壊というのは多様化を可能にしてより開けた自由を得ることを可能にするが、同時に負の側面も発生する。これが生み出すもう一つの側面は自分の考えていることと相手の考えていることが共有できないという感覚を生むことになる。私が「正しい」と思う事を相手にも「正しい」とおもわせることが困難になるのである。更にこの状態では、自分が「正しい」と思っていることが本当に「正しい」と思っていることを保証してくれるものはなんであろうかという疑問が生じてくる。それと同時にオリジナルと呼べるものを経験から作ることが困難となってくるし、例えそれを作ったとしても他人に受け入れさせるということが困難になってくる。共通体験の不在は「経験を交換する能力の衰退」(ベンヤミン,1967)を導くものであったのだ。
例えばどんな戦争映画をリアルと感じるかという様式も時代によって違ったものとなる。当然のことながら、戦争を体験した世代にとっての戦争映画のリアルさの基準というのは、自分たちの経験にある。だから作り手の側もそうした経験に照らし合わせてその映画を作り出せばいい。しかし、戦争を上の世代から引き継いでいない世代というものが感じるリアリティというのは、自分がこれまで見てきたドキュメンタリーや他の戦争映画などのフィクションから引き出さざるを得なくなる。つまり、人がモノを作るのではなく、モノから作られたモノ、ボードリヤールの言葉を借りるならばシュミラークルというものを作っていかなければならなくなってくる(ボードリヤール,1996)。
しかし、こうしたモノからモノを作るという過程は、いうなればリミックスをしていくという作業であり、新たなものを創造するということが出来ない。ここではリミックスのセンスだけが問われてしまい、作者の作家性というものは後退していかざるを得なくなる。そこで突き当たるのが、自分は表現者として何が出来るのかということである。ベンヤミンの言葉を借りるならば、庵野が突き当たった困難というのは以下のものである。大きな物語(=共通体験)の崩壊により、オリジナルを作り出すことが困難になり、シュミラークルしか生産できない現代において、それでも作品にアウラ(=いま・ここの一回性)を宿らせるにはどうすればよいのかというものである(ベンヤミン,1998)。
そこで注目しなければならないのは、『新世紀エヴァンゲリオン』の、過剰なまでの引用の多さである。その引用の幅はオタク的なもの(アニメ、漫画など)だけに限らず、心理学や生物学、宗教学などの様々なものからの引用が見られる。こうした大量の引用が、製作側の「意図する/しない」に関わらずに消費者が結びつけを行うようになる。これはリミックスの手法であり、オリジナルのないからこそ「組み合わせ」によって新しいオーラを獲得できるのかどうかというものである。
2-3パッフェルベルのカノンと友達地獄
そうした引用の組み合わせによるエヴァンゲリオンの特徴を最も良く示しているのが、劇場版第一作の『シト新生』のDEATH編である。これはTV版に新たなカットを加えた総集編であり、通常こういった作品はテレビ版の要約的なものである場合が多い。ところが、このDEATH編では、テレビシリーズを見ていない人は決して理解できないように作られており、TV版を見ている人間も完全に理解できるように作っていない。だが、どこか意味のありそうなものに見えるような繰り返しなどが行われている。まさにサンプリングやリミックスの手法が大量に使われている。
これに関連させてこの作品について言及しておくべきことは、この作品に使われている曲がパッフェルベルのカノンであるということである。
カノンは、原題を「三本のバイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ」といいチェロによる低音主題からスタートして三つのバイオリンが順序よく輪唱のように始まり、輪唱のように終わる。この輪唱という形式自体が、元の通奏低音というオリジナルの変奏であるととることができる。
このカノンという曲はもう一つの他人との距離のとり方というテーマにも関連させて読解することができる。輪唱というのは一見すると他者との協調が必要な作業であるように見える。しかし、本当に他者に合わせようとすると釣られてしまうのである。ここでなされている作業というのは他人が自分と違うことをしないと信頼した上でそれぞれの演奏を奏でているのである。他人がこう演奏しているという予期に従ってそれから「浮かない」ように自分の演奏をしていくのである。エヴァンゲリオンの登場人物にはこうした態度をそのまま当てはめることができる。では、なぜそれほどまでに浮かないことを求めるのだろうか。
D・リースマンは『孤独な群衆』の中で、人の社会的類型を伝統指向型、自己本位型、他者指向型の三つに分けて、それが順番に移行しつつあると論じている。では、大きな物語が崩壊した後の社会ではどのような社会的な人格類型を示すのだろうか。一見すると絶対的な基準が消滅したことにより、それぞれが自由に物事を決められるようになるので、個性が尊重され自分の意思に従うので自己本位型になると思われがちであるが、実際には逆である。リースマンは自己本位型をジャイロ・スコープ(自転ゴマ)型、他者指向型をデータ型という比喩を用いて表現している。この表現にそうならば、自己本位型は自らの軸を持っているような人間を指し、それに従って、あらゆる行動を自転するように決められる人間のことをさす。この軸にあたるものこそが、自己の行動を決定する基準となるのは、いちいち具体的な他者の顔色をうかがわずとも、それを他者と共有している感覚、すなわち共通体験(=大きな物語)があるからこそ、自分の行動に自信を持てるのである。一般的な他者を内面化しているので、ちくいち具体的な他者のことを気にしないですむのである。だから大きな物語のない世界においては具体的な他者を気にしながらでしか、自らの行動を決定することができなくなる。
だが、同時に他者を基準として行動する際には、他者に承認をしてもらうことでしかアイデンティティを保持することができなくなるので、他者に承認をしてもらうことが必要になる。だから、他人が不快に思わないように「あたりさわりのない」人間関係を続けていくことしかできなくなる。これによって表面的な人間関係しか築くことが出来ないので逆説的に他者と「深い」関わりを持つことが出来ずに自分というものを見失ってしまう。この循環によりアイデンティティを構築することが出来ないという生き辛さが無限に加速していくのである。
さらに、こうした循環構造は自分の周り以外に対する想像力を減退させることになる。他者指向型の人間は自分のアイデンティティを「他者」に求めているので、自分を承認してくれないような「他者」、すなわち自分のよく知らないような人間は排除することになる(ヤング,2007)。そして自分の周り以外の人間はどうでもよく、反対に自分の身の周りの人間との関係が強まっていく(土井,2008)。
こうしたことを踏まえながら考えていくと、作品中で投げかけられる問いはハリネズミのジレンマをやや「変形」させた不安であるように思われる。ハリネズミのジレンマは互いに傷つけあってしまうかもしれないが暖めあいたいというジレンマであるが、シンジ達が感じているのは、もっと絶望的な感覚である。それは、互いに暖めあうことが、いや、それどころか傷つけあうことさえもできないのではないかという不安なのだ。
この自己と他者の描かれ方は映画全体のカメラワークにも特徴的に見られるものである。それは、2人を超える登場人物の顔をわずかな例外のシーンを除いて同時に映さないというものである。これによって物語全体は世界の全貌を巡るような話なのであるが、二者関係的な関係にそれを押しこめるような効果を持っている。そうしてこの二者関係的な不安を巡って物語が展開されていくのである。
こうした基準を消失した世界の中で、そうした不安に振り回される存在として、この物語の主人公である碇シンジが描かれ、こうした不安を克服するものとして人類補完計画という計画が語られている。そして劇場版ではこの人類補完計画というものがついに始動することになる。
共通体験が不在であるということによって碇シンジが感じる「他者との関わりにくさ」と一つメタなレベルにたった庵野秀明の感じる「物語の作りにくさ」のシンクロが『新世紀エヴァンゲリオン』が、この作品を読解していく上でのキモである。そこで作品を読解していく上ではこの二つの視点を交錯させながら読解をしていく必要がある。
2−4こんなのアタシじゃない!!
劇場版エヴァンゲリオンの前半部の中でこの二つの線が交わる部分が最もよく現われているシーンは、ヒロインのアスカ(cv(キャラクター・ボイス、すなわち声優)宮村優子)の場面である。
惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく―♡あんたバカぁ!?チャーンスだから私を見て!!(cv三石琴乃
違う!!違う!こんなの私じゃない!(cv宮村優子
惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく―♡あんたバカぁ!?チャーンスだから私を見て!!(cv林原めぐみ
違う!!違う!こんなの私じゃない!(cv宮村優子
惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく―♡あんたバカぁ!?チャーンスだから私を見て!!(cv長沢美樹
違う!!違う!こんなの私じゃない!(cv宮村優子
惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく―♡あんたバカぁ!?チャーンスだから私を見て!!(cv山口由里子
違う!!違う!こんなの私じゃない!(cv宮村優子
惣流アスカ・ラングレーです。よろしく―♡あんたバカぁ!?チャーンスだから私を見て!!(cv岩男潤子
違う!!違う!こんなの私じゃない!(cv宮村優子

こうして五度に渡ってアスカは他者の声でしゃべる自分の姿を否定している。ここには、どんな含意が込められているのだろうか。
この場面でも、例の二重の水準での読解が可能になる。一つは、庵野のどこまでキャラクターというものは同一のものであり、どこからがコピーになるのかという考えである。庵野は同様の「実験」をテレビシリーズの25話と26話に行っており、そこでは線だけのキャラクターに声優が声を当てるというものであった。
逆に、ここでは映像も口癖もそのキャラクターのものであるが、しゃべっている声だけが別物であるというケースである。
それとは別の水準、すなわち自己と他者との関係という水準においてもこうした議論を展開することが出来る。口癖というものは他人に自己を提示する上で演じる「キャラ」を現すものである。つまり「あんたバカァ」や「あたしを見て」などというセリフは他の作品にパロディで出された場合にエヴァを見ていた人間であれば、アスカが元ネタであるとわかるし、二次創作の作品などではこうしたセリフさえ入れておけば、読み手の側はそれがアスカだと認識してくれる。しかし、ここで出てくるのが「キャラ」と「キャラクター」の区別(伊藤,2005)に関する議論である。
伊藤の区分は漫画に関する研究であるのでそのままの定義をあてはめることは出来ないが、それを援用する形で広く応用することの出来る概念である。伊藤の定義によるとキャラとは、固有名で名指されることで「人格・のようなもの」を感じさせるようなものを言うのに対して、キャラクターは「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの(ibid.)である。つまり、ここでの「こんなの私じゃない!!」という叫びはこう読み替えることが出来る。それは「私はアスカという『キャラ』じゃなくて『キャラクター』なのよ」というものである。
そこで消費されるキャラとしての自分はなんら人生というものがなくても流通してしまうものである。そこは与えられたキャラとしての役割を振舞うということだけが、大切であり、本人が「キャラクター」であるということは問題にならない。これは作品の中だけでなく、実際の人間関係においても見られる光景である。前述したように共通体験という基盤を亡くし、他者指向型の人間が互いにコミュニケーションを行うときには、「本当の私」というものを認めてもらうために「あたりさわりのない表面的な私」で他者に接することになる。しかし、他者に提示する「私」は後者の「あたりさわりのない私」(=「キャラ」としての私)であるので、「本当の私」(「キャラクター」としての「私」)を見てくれることがないのである。
3補完前
3−1最低だ・・・俺って
劇場版エヴァンゲリオン二作目の始まりは、衝撃的な場面から始まる。

少年(シンジ)がベッドに寝転がり機械につながれたて背中を向けて寝ている少女(アスカ)にむけて呟きかける。「ミサトさん綾波も怖いんだ・・・助けて、助けてよ、アスカ」背を向けたまま答える様子のないアスカ。「ねえ、起きてよ」アスカの肩に手をやり体を揺さぶる。「ねえ、目を覚ましてよ・・・ねえ、ねえ、アスカ」その揺らす力はだんだんと強まっていく。「助けて・・・助けてよ」「また、いつものようにボクをバカにしてよ!」首に一滴涙をこぼした後に今までよりひときわ強く肩を引っ張る。強く引っ張ったためにアスカの体が仰向けになり胸がはだける。鍵がLOCK状態の扉が映し出され、シンジの荒い息遣いだけが聞こえる。そしてシンジの汚れた手が映し出される。ベッドに寝ているアスカはさきほどと全く体勢が変わっていない。「最低だ・・・俺って・・・」
 
 冒頭が主人公の自慰シーンから始まるアニメというものは論者のしる限り、例をみないが、この自慰という表現は、庵野が自らの作品をあらわすときにしばしば用いる比喩である。
例えば、庵野は劇場版の前に、評論家であり漫画家でもある竹熊健太郎と大泉線との対談を行っているが、そのタイトルが「創作とはオナニーショウである」といったものであった。その対談の中で庵野は、以下のように述べている。

あとは下世話な話ですが、四畳半で一人シコシコやっているのが絵になるかっていう問題ですね。それが舞台の上に立ってパーっとやった方は、僕のオナニーはショウになりますよっていうふうに。で、客は顔にかけてくださいねってね、それで顔にかけてあげる
(『スキゾ・エヴァンゲリオン』p73)
 この冒頭の自慰シーンは、まさにそうした表現からスタートしているということで非常に象徴的なものである。そしてこの作品は全てこの自慰との関連で読解していく必要がある。では、この自慰のシーンがあらわしているものとはいったいなんだろうか。
このシーンを見ていて抱くであろう、素朴な疑問が一つある。それは意識のないアスカに欲情しているのに強姦するのではなく、自慰をしている点である。そしてシンジは、そのことを含めて自分が「最低だ」と考えているのである。そのことに関していつか分析を試みることにする。
 ここで、シンジが強姦ではなく、自慰を選択したのは、他者との肉体的接触を避けるためである。頭の中に描いた他者というのは、自分の思ったとおりになり、自分を傷つけることのない「自己の中の他者」である。自慰では、こうした他者に向き合っており、実際の他者に向き合わずにすむ。しかし、相手に肉体的な接触を持ってしまった瞬間に、こうした思い通りになる他者ではなく、自分を拒絶され傷つけられるかもしれない、傷つけてしまうかもしれない「他者性を持った他者」(大澤、2008)がでてくる。2)
 シンジは、前述したように他者とかかわりのある行為をすることで、誰かを傷つけてしまうかもしれないし、傷つけられてしまうかもしれないと思っている。だから、「母親代わり」としてではなく、「大人の女性」として自分と関係を持とうとして近づいてきたミサトも「怖い」し、理解しかけていたと思い込んできた綾波が別のものであるということがわかってしまったということが「怖い」のである。そこでどうやら自分に好意を抱いてくれているらしい、拒絶されるという可能性の少ないアスカにすがったのである。つまりここでシンジは「他者の他者性」に怯えながらも、自分を承認してくれる他者を求めている。
 しかし、意識のない他者の肉体という極限に小さい他者性でさえも受け入れることが出来ず、自分で「処理」してしまっているのだ。そこでシンジが抱いている「最低だ」というのは意識のないアスカに対してそういうことをしてしまったという罪悪感も存在するが、意識のないアスカにそういうこと「しか」できなかったという意味も持っている。
 ここでシンジはアスカに「ひどいこと」をしたと考えており、アスカを傷つけたと思っている。しかし、同時に自分に対して「傷つけあう」ような関係を求めてきており、自分もどこかでそのような関係を求めていた相手に対してこのような態度でしか、接することが出来ずに、精神だけでなく意識を失っている身体でさえ、傷つくことが怖くて「傷つけたと思いこむ」ことしかできなかったことこそが彼女に対してした「ひどいこと」であり、そういう捩じれた傷つけ方に対して自己嫌悪を抱いて「最低だ」と呟いたのである。
3−2二つの補完計画
新世紀エヴァンゲリオン』において、全話を通して主人公の所属する組織であるネルフとその上部組織であるゼーレが進めていた人類補完計画というものがあり、完結編となる劇場版ではその謎が解き明かされることが期待されていた。そして劇場版の冒頭でその計画がゼーレとネルフの間で異なったものであったことがあかされる。まず、その計画を先ほどの大きな物語の欠如によって生じる他者との関係性不安という視点からみてみよう。
エヴァンゲリオンは2015年の世界という設定で、2000年にセカンド・インパクトと呼ばれる大災害が起こったとされている。ここでエヴァに乗る主要人物は子供だけであり、全員が14歳、もしくは15歳であるということを指摘しておく必要がある。この年齢の設定はどう考えてもこのセカンド・インパクトを体験して「いる/いない」世代の区分を作るためである。そうしてこうした共通体験がない世代(=不完全な人類)を補完するというのが人類補完計画である。そして、その方法がゼーレとシンジの父のゲンドウの率いるネルフの間で異なっているのだ。
 ゼーレのシナリオというのは人類の行き詰まりを回復させるためにサード・インパクトという大災害を起こし、人類の大部分を死滅させるというものである。これによって共通体験を生み出して新たなスタートをきるというハルマゲドン的なものである。
 これに対してゲンドウは「死は何も生み出さない」とした上で進化の行き詰った単体としての人類を群体として再編成するというものである。この補完計画は、クラークの『幼年期の終わり』のオーバーマインドがモチーフとなったもので、単体としていきづまった人類を群体として人工進化させることで、他者のいない「自分だけの」世界を作るというSF的なものである。
 この両者の計画の対立から碇ゲンドウネルフが邪魔になったゼーレは、陸上自衛隊を送り込んでネルフの制圧に乗り出すことになる。
 そしてこの二つのどちらの計画にもエヴァンゲリオンが不可欠であったが、当のエヴァンゲリオンに乗るチルドレン達はそのことに全く関心がない。つまり共通体験がないから他者との関わりが云々という「何故」的なことよりも目の前の他者との関係をいかに保っていくかということに追われていてその場、その場でエヴァに乗るか乗らないかということを選択しているのである。抽象的な他者との関係の築きにくさに眼が行かずに今の関係性の息苦しさを処理するので手一杯なのである。
 このように根本的な温度差があるにも関わらず、どちらの選択肢をとるかということは碇の息子(=シンジ)に委ねられることになる。しかし、劇場版でのシンジはそのエヴァンゲリオンに乗るということを既に拒絶して、誰かを傷つけるくらいなら何もしないほうがいいと決めて自分の中に引きこもってしまっている。
3−3母であることの断念
 この共通体験がある世代とない世代の温度差として対比して描かれるのが、シンジと第一話から同居しており、「保護者として接してきた」葛城ミサトである。彼女は引きこもっているシンジとは対照的に映画の序盤から動き続ける。まず、元恋人であり殺害された加持リョウジからのヒントを手掛かりに人類補完計画の秘密へとアクセスしていく。そして敵がネルフの基地内に入っても動こうとしないシンジを救出する。
 そうして相変わらず動こうとしないシンジを引きおこしながら、シンジにこうどなりつける。「アンタ、まだ生きてるんでしょ?だったら、生きて生きて生き抜いて、それから死になさい」。そう叱咤激励しても動こうとしないシンジを引きずる形で、逃がそうとする。エヴァに搭乗させるエレベーターまでシンジを連れて行くが、その手前で敵の銃撃を身体に浴びて負傷をする。
やや長い場面になるが、中盤の最大の山場のシーンなので、そのまま引用することにしよう。
(場面挿入)
壁にもたれかかり、腹部を抑えるミサト。そこには血が滲んでいる。
(ミサト)大丈夫・・・大したこと無いわ
立ち上がってエレベーターのスイッチを押す。エレベーターのところまでシンジを連れていく。エレベーターの金網に手をかける。シンジはその金網を背にする形になり、ミサトと向かい会う。
電源は生きている。いけるわね
シンジの顔をまっすぐ見て話をしようとするミサトだが、シンジは目を逸らす。ミサトの手は自分の血で、血まみれになっている。
いい、シンジくん?ここからあなた一人よ
全て一人で決めなさい、誰の助けも無く
俯きながら金網を握って呟き始めるシンジ。
(シンジ)
ボクは、ダメだ。ダメなんですよ。ヒトを傷つけてまで、殺してまでエヴァに乗るなんて
人を傷つけてまで殺してまでエヴァにのるなんて、そんな資格ないんだ。
ボクはエヴァに乗るしかないと思ってたでもそんなのごまかしだ。何にもわかってない僕にはエヴァに乗る価値もない。
ボクには人のためにできることなんて何にもないんだ。
アスカにひどいことしたんだあ。カオルくんも殺してしまったんだ。
優しさなんかかけらもない、ズルくてボクは人を傷つけることしか出来ないんだ
だったら何もしないほうがいい
(ミサト)
同情なんかしないわよ、自分が傷つくのが嫌だったら何もせずに死になさい
(シンジの嗚咽)
今、泣いたってどうにもならないわ
(間)
自分が嫌いなのね、だから人を傷つける
自分を傷つくより、ヒトを傷つけたほうが心が痛いことを知っているから
でも、どんな思いが待っていてもそれはあなたが自分ひとりで決めたことだわ
価値のあることなのよ、あなた自身のことなのよ
ごまかさずに自分のできることを考え、償いは自分でやりなさい

ここでのシンジのセリフ、いやミサトのセリフまでを含めて、論者の要約などよりも、はるかに正確なエヴァンゲリオンのテレビ・シリーズの要約となっている。ここでのシンジがエヴァンゲリオンに乗る理由を他者に求めているのに対して、「自分ひとりで決める」ということをミサトはシンジにつきつけ続けてきた。
 ここでは、ある意味では一つの世代間の対立が描かれている。シンジに対して一貫して「自分で決めて」前に踏み出さなければならないといったことを言っている。しかし、こうした正論は、共通体験がある世代の側が発することの出来るものである。それに対してシンジが言っているのは、二つのことである。「周りの他人を傷つけてしまうことが怖い」というものと、それだから「何かをする自分」ではなく「そのままの自分」を承認して欲しいというものである。この対立はターニングポイントごとに続けられているものであるが、互いに極限状態であるので、ある域をお互いに踏み超えていくことになる。
そこでシンジがあるセリフをいったことで両者の距離感は変化する。「ミサトさんだって他人の癖に」というセリフである。そこでシンジの顔を強制的にこちらに向けて話を始める。以下場面の引用を続けることにしよう。

下を向きながら叫ぶシンジ。目には涙がある。
シンジ
ミサトさんだって他人の癖に、何にもわかってないくせに
(急に厳しい顔になりシンジを金網に押し付けるミサト)
他人だからどうだってのよ!!あんたこのままやめるつもり?何にもしなかったらあたし、許さないからね!!
(シンジの顔を掴んでまっすぐに自分のほうを向かせる)
一生アンタを許さないからね。
今の自分が絶対じゃないわ、後で間違いに気づき後悔する。あたしはその繰り返しだった。ぬかよろこびと自己嫌悪を重ねるだけ、でもそのたびに前に進めた気がする。
いい、シンジくん、もう一度エヴァーにのってけりをつけなさい、エヴァに乗っていた自分になんのためにここに来たのか、何のためにここにいるのか今の自分の答えを見つけなさい、そしてけりを着けたら必ず戻ってくるのよ、約束よいってらっしゃい
(シンジに自分の父の形見のロザリオを握らせる)
(穏やかな顔で)約束よ?
シンジ
うん(下を向きながら)
ミサト
いってらっしゃい・・・
(一旦カメラが引いてアップになったときシンジに口付けをするミサト)
大人のキスよ、帰ってきたら続きをしましょう
(シンジを押してエレベーターに乗せる)

この「他人の癖に」という言葉は、シンジのミサトが「である自分」を肯定してくれないということに苛立って発した言葉である。
ここでは、会話の流れだけでなく両者の視線の流れがポイントになっているのである。ここでは壁に押し付けて睨んでいるミサトに対してシンジは視線を逸らしている。
この両者の視線の関係に関して、<顔>というものに関して見ていこう。<顔>とは、剥き出しの他者性そのものであり、いかに自分の中に取り込もうとしても依然として残り「汝、殺す勿れ」という信号を発して、我々が常に持つ他者への殺意を不可能なものとするものである。(レヴィナス,1998)
これまでミサトは、シンジの「母親代わり」の役を引き受けていた。しかし、シンジに「他人の癖に」といわれた瞬間に<他者>になることを決意して、シンジと向かいあおうとしている。「―である」自分などというものを承認してくれるのは、母親だけである。母親であるならば、こうした「―である」自分というものを承認してくれるはずだが、ミサトさんはそれをわかってくれない「他人」であると呟いてしまったのである。今までのミサトは「あなたが自分で決めなさい」や「やりたくないならやらなければいい」といったようにシンジの決断に「表面上は」委ねていた。
ここでミサトは初めて「私は自己嫌悪を繰り返したけど前に進めた気がした」、「もう一度エヴァーに乗りなさい」といった自らの主張をする他者として向き合おうとしている。そして「逃げたら絶対にアンタを許さない」と言っている。「―である」シンジを、承認するのではなく、「―する」シンジを承認すると明言しているのである。
そしてシンジに「大人のキス」をして「帰ってきたら続きをしましょう」といっているのである。シンジの「母親」であることを断念して「女」として接しようとしているのである。
3−4庵野秀明の写真と五人の女性
しかし、シンジはこうしてミサトに促され、復活したアスカが自分の替わりに闘っているときでも、膝を抱えてエヴァに乗ろうとはしない。そうしてシンジが膝を抱えているうちにアスカの乗る二号機は敵に原型をとどめないほどに破壊される。その姿を見てシンジの精神は崩壊する。
そこで前半部が終わり、一度スタッフロールが入り、庵野のコメントが入る。
このシャシンを再び終局へと導いてくれた
スタッフ、キャスト、友人、そして、5人の女性に
心から感謝いたします。
          ありがとうございました。
                 庵野秀明
ここでいう5人の女性と「スタッフ」「キャスト」を分けているが、この5人の女性というのは誰だろうか。一つの説としてはメインキャラクター役の5人の声優(シンジ役の緒方恵美、レイ役の林原めぐみ、アスカ役の宮村優子、ミサト役の三石琴乃赤木リツコ役の山口由里子)であるというものであるが、この場合には「キャスト」達に彼女達が含まれるのではないかという問題がある。
もう一つの可能性はこの5人が主要なキャラクター、すなわち上にあげた声優が演じていた5人からシンジを抜いて、代わりにレイと同じ林原めぐみが演じている碇ユイを加えるというものである。しかし、庵野は自身のインタビューの中で、『新世紀エヴァンゲリオン
に登場する人物は全部自分の分身であるといっているうえに、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品を「シャシン」といっておきながら、その中の登場人物を五人の女性と表現することは考えにくいのかもしれない。
 では、庵野の身の周りの女性であろうか。おそらくこの線が一番有力であるのかもしれない。しかし、真実が上記のいずれか一つであるかということは決定不能である。読み手の側それぞれによっていかようにでも解釈できるということが必要なのである。
3−5誰かボクを見てよ
そして後半部ではSF的、抽象的な表現が多様されるが、そのガジェットを抜いてみるとほとんどが自らの内側に引きこもることに決めたシンジの精神世界で起こっていることである。そして、ある段階を超えた瞬間に、その内側の世界が周りに干渉を始めるというものである。その直前のシーンを見てみよう。
(シンジ)
このままじゃこわいんだ、いつまたボクがいなくなるのかもしれないんだ
ざわざわするんだ、落ち着かないんだ、声を聞かせてよボクの相手をしてよボクにかまってよ
何か役に立ちたいんだ、ずっと一緒にいたいんだ
(アスカ)
じゃあ、何もしないでもう傍に来ないで、あんたアタシを傷つけるだけだもん
(シンジ)
アスカ助けてよ、ねえ、アスカじゃないとダメなんだ
(アスカ)
嘘ね、あんた誰でもいいんでしょ、ミサトもファーストも怖いから
お父さんもお母さんも怖いからアタシに逃げてるだけじゃないの
それが一番楽で傷つかないもの
(シンジ)
ねえ、ボクを助けてよ
(アスカ)
本当に他人を好きになったことないのよ
自分しかここにいないのよ、そんな自分もスキだって感じたことないのよ
哀れね

(シンジ)
ねえ誰かボクを助けて、お願いだからボクを助けて、一人にしないで、ボクを見捨てないで、ボクを殺さないで
(アスカ)

(俯きながらアスカの首を絞めるシンジ・音楽「comn suser tord(甘き死よ、来たらん)」が流れ始める)

その自我に引きこもることがある境界を超える瞬間とは、自分を承認してくれないアスカの首をシンジが絞める瞬間である。この首を絞めている瞬間にもシンジは、アスカの顔を見ていない。「汝、殺すなかれ」という<顔>を見ずに、自分の事を承認してくれないような他者を殺害するということは、他者性を持った他者を許容しないということである。
 ここでもう一つ、注目しておかなければならないのが、このアスカとシンジの会話というものがおそらく実際にはなされていないということである。実はここでなされている会話というのはシンジが冒頭で意識のないアスカに対してしていた会話そのものなのである。そして他者性のある他者の否認、殺害というのは冒頭での自慰のメタファーであり、頭の中の他者性のない他者の世界に引きこもるというものである。
3−6I NEED YOUというショウニン
そこでシンジの自他の境界がなくなり、全ての人類が補完、すなわち単体の多数の生命体から一つの群体に進化するというSF的なシーンがあるが、このシーンはある意味では非常に象徴的なものであると言える。ここでは、生き残っていたネルフの前に自分が好意を抱いている人物の幻影があらわれる。そしてその幻影と一つになるように補完されていく。その補完の最も象徴的なシーンがオペレーターの伊吹マヤの元に赤木リツコの幻影があらわれたという場面である。リツコは後ろからまわりこんで、マヤのパソコンに文字を打ち込み、マヤが補完されるというものであるが、その打ち込んだ文字が「I NEED YOU」というものである。
ここまでの議論を追っていれば、わかることであるが言うまでもなく、これが一つのキーワードである。ここでは「―である」自分を承認して欲しいという欲求を満たしているのである。つまり大切だと思っている人間に「INEEDYOU」といって貰う世界というのは他者性のない他者、自分を認めてくれる他者しかいない世界、すなわち他者性の持った他者のいない世界(ラカンの言う<想像界>)4)の中に人を引きこもらせてしまうという比喩である。
こうして全人類が他者のいない世界に引きこもってしまう。目まぐるしく移り変わる映像と「私と一つになりたいの?」などのセリフが続く。そして最後に「あなたとだけは死んでもイヤ」とアスカの声が言った後に、突然アニメのシーンが途切れ、実写の席が映し出される。
この表現の含意はエヴァの消費者が、補完後の世界・他者性のない他者の世界を生きているということへの否定を行う表現である。そのようにして観客も自分もこうした世界に引きこもっているということを指摘した上で、その外側へ持っていくように結末を以降させていこうとする。
4−1帰りたいと思ったのは嘘じゃない
(シンジと綾波が一つになりながら話をしている)
綾波
ここはATフィールドを失って自分の身体を失ったセカイ
どこまでもが自分でどこにも自分がいないセカイ
これがあなたの望んだセカイそのものよ
(ミサトがくれたロザリオを放してそのロザリオを見つめるシンジ)
綾波
他人の存在を再び望めば再び心の壁が全ての人達を引き離すわ。
また他人の恐怖が始まるのよ
(シンジ)
いいんだ
綾波の手を身体から取り出して握手する)
ありがとう
(指にかけられた十字架)
あそこでは何もなかった
逃げたところにも何もなかった
だってボクがいないもの、誰もいないのと同じだもの
渚カヲル
再びATフィールドが自分や他人を傷つけてしまってもいいのかい
(シンジ)
構わない、でもボクの心の中にいる君たちは誰?
(カヲルと綾波
希望なのよ。人は互いにわかりあえるかもしれないというねスキだという言葉と供にね0
(シンジ)
だけどそれはみせかけなんだ、自分勝手な思い込みなんだ、祈りみたいなものなんだずっと続くはずないんだいつかは裏切られるんだボクを見捨てるんだ
でもボクはもう一度会いたいと思った
その時の気持ちは本当だと思うから
(集合写真が映し出される)

自分の中に引きこもってしまって、他者のいない世界を築き上げてもその世界は非常に味気のないものであった。シンジは他者性を持った他者のいない世界は、自分もいない世界であると気づく。そして、傷つけられてもいいから他者のいる世界に帰ることにする。
ここで出てくる集合写真というのは、この劇場版全体でかなり特異な位置にある。映画は一人のアップか多くて二人以上のアップを映し出していない。主人公であるシンジにいたってはカメラワークだけでなく三人以上と話すシーンというものが、この場面でしか存在していないのである。
これに対して、この集合写真は作中の登場人物の大部分が映ったものである。これはテレビシリーズの8−12話あたりまでをイメージするような写真であるが、実際にこんな写真が撮られたかどうかはわからない。この差異はなんだろうか。
他者と自分との関係に関して延々と議論を展開しているが、それはあくまで二人称的な関係に絞られたものである。あなたが承認してくれるのか、くれないのかそうしたことばかりが焦点に当たっているのである。これは頭の中で構築される関係という観点から見れば自然なことであるが、実際の人間関係を考えてみれば明らかに歪んだ想像力である。実際には、他者は母親か恋人かの二種類の人間しかいないわけはなく、認めてくれる他者もいれば認めてくれない他者もいる。そんな世界へと戻っていくということ、すなわち物語の外側へと出ていくということが示唆されているのである。
4−2それでもやっぱりI NEED YOU
さて、通常の物語としてはここで完結する方が終わりとしてキレイであるが、この作品ではラストで「物語の外側」を描こうとしており、同時にそのことの不可能性も意識している。それは「one more final− I need you」と表題されたラスト・シーンである。

シンジは他者のいない世界を否定して、群体となった人類の外側に出ることになる。そして目を覚ますとそこにはアスカが寝ている。その顔を見て思わず首を絞めてしまうシンジ。そんな、シンジの顔に手を当てるアスカ。そしてそこでシンジは泣き出して涙を零す。
そのシンジを見ながらアスカが呟き、終劇する。「気持ち悪い」
 
 ここまで読解してきたことを便りにこのラスト・シーンを見ていこう。
言うまでもないことであるが、ここで寝ているのはミサトや綾波であるということはありえない。アスカはシンジと主に関わる女性の中でただ一人、母親としての役割を引き受けないキャラクターである。この他者と向き合うということは母親との決別を意味する。アスカの首を絞めたということは、他者と向き合っていこうと決めたとはいえ、最初に出会った他者が自分のことを拒絶するような他者、自分にとって強力な他者性を持った他者であるからである。だから、そうした他者を見て思わず首を絞めてしまう。
 自分の頭の中で首を絞めたときには、アスカは抵抗しようともしなかった。しかし、ここでのアスカは抵抗するのではなく、逆にシンジの頬に手を当てるという予想外の行動にでることになる。そこでシンジはアスカの<顔>を見て、他者がいるのだということを認識してしまう。そこでもう他者と向かい会わざるを得ないのだということを認識してしまうのだ。
 こうして他者と向かい会うシンジは一歩踏み出したてみるという前進をしたシンジであったが、通常であればそうして前に一歩踏み出したシンジをアスカが承認するというのもありえるだろう。そして「他人と向き合うということは大切だよ」というメッセージにすることも可能であったはずだが、それでは「いい物語」として消費されて終わってしまう。ここでなされているメッセージはより徹底したものである。アスカに承認されるという結末は、(いいことがあるから)他者と向き合ったほうがいいというものであったが、ここでなされているのは(いいことがなくても)他者は必要なのだということである。だから、自分を拒絶するような他者、自分が望まないような他者であっても向き合っていかなければならないというメッセージになっているのである。
ここでアニメ夜話で語られたエピソードに関して引用しておこう。本来、台本を書いた時点では、ここでのセリフは「あんたなんかに殺されてたまるもんですか」というものであった。しかし、そのセリフでは承認とも否定ともつかない結末に終わってしまうということに気づく。そこで庵野がしたことは、アスカ役の宮村優子に状況だけをいって、どんなセリフを言うかを決めさせるというものだった。庵野はアニメ監督としては作家性の強いタイプで、ほとんどの構成や脚本を自分でつくっている。だが、最後の最後で他者に物語の決定を委ねたのである。
その宮村優子に提示した状況とは、以下のものである。自分が寝ていたら男が入ってきた。自分の身体はうごかない。そこで男が自分を見て自慰をしている。それを見てどう思う?
ここまでの議論を踏まえれば解説することは必要ないだろう。エヴァとはそういう作品だったのである。
5結論とあとがきに代えて
与えられた文字数も大幅に超えている上に、与えられた時間にも限りがあるために、これ以上の詳細な検討は別の機会に譲り、そろそろ議論をまとめ、その上で今後の『新世紀エヴァンゲリオン』の新劇場版に対していだく期待していることを述べたい。
ここまで、劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』二作の分析を通して非常に抽象的な議論をしてきたが、本論での分析は実はシンプルなものである。それは、自分と他人が同じ平面に立っているということが「信じられなくなった」社会において出てくる二つの困難によるものであった。
その困難とは「物語を作るということ」と「他者と関わるということ」である。その一見直接的に関係のないはずの両者が「共通体験の不在」という共通の原因を持つということだけにとどまらずに、もっと直接的にその両者を結びつけてしまうような捩れた欲望が存在したのである。この欲望こそが庵野が「物語を作る」ということに対する姿勢であるのと同時に、「物語を消費」するものも同様の欲望を持っていたのである。それは簡単にいってしまえば「シンジの悩み」とエヴァンゲリオンの「世界の謎=人類補完計画」というものを短絡させてしまう欲望と「エヴァンゲリオンの世界」と「オタクの世界」を短絡させていくという欲望である。
そして映画全体を通してこの「関係の悩み」と「物語の悩み」の二重構造が分離することなしに描かれていく。そして、その二重構造の一つの答えが人類補完計画によって補完された世界であり、テレビ版の最終回ではこの補完というものがある意味では、一つの答えとして他者のいない世界、引きこもりの世界が肯定され、オリジナルでないものがたることになる。しかし、こうした答えの世界に意味というものを見出すことが出来ず、劇場版では最後に「他者」のいる世界に帰って来ようとする。ここでシンジは自分に気持ち悪いというかもしれない他者(=アスカ)にそれでも向き合おうとし、庵野も自らの物語の最終的な結末を他者(宮村優子)に委ねるというものである。物語お前(=オタク)らの仲間だった俺(=庵野)も僕(=シンジ)も他者といることを選んだのだからお前らも他者と向き合えというものであった。『新世紀エヴァンゲリオン』自身は支持されたが、この最後の結末は支持されなかった。エヴァに大きく影響された作品はセカイ系5)という一つの潮流になった作品群も、ゼロ年代の後半になるまでは、最後の自己の世界に内閉するということへの「否認」までを踏まえていなかった。
それは、この結末というものがある意味では、エンターティメント性を無視した非常に暴力的なもので否定的なものであり、にわかには受け入れることができないものであったからだ。そこで2008年から始まった劇場版全三作でリメイクが決定されている。
その第一段は2008年の夏に公開されたものでテレビシリーズの1−6話をなぞったものであった。しかし、細かなところに差異が生じている。まず第一として、新劇場版の世界自体が、旧・エヴァンゲリオンのループ後の世界であることが暗示されている。また、シンジや周りとの関係が以前よりも微妙に変わっている。セリフなどがたいてい同じなので油断していると見逃してしまうが、シンジが「身体的接触」を以前よりも全く恐れていないということである。
エンターティメントを作ろうとする庵野と他人との接触をさけようとしないシンジというものが、乗り越えであるのかそれともエヴァというものを捨てた対抗であるのかはわからない。それに対する答えがわかるには、2009年の初夏に公開される新劇場版第二作とその後の第三作を待つしかない。
1)副題のthe end of evangerionnの略。本題はAIR/まごころを君に
2)オタクが少女を傷つけてしまうことへの嫌悪とマッチョイズムを後退させていくそぶりをみせる様子に関してはササキバラ・ゴウの『美少女の現代史』が詳しい。
3)例えば庵野自身が最終話でやった実験に線画と声だけでアニメのキャラクターとして同一性を保ちうるかという実験と、エヴァとは全く違った世界観でキャラだけが同じな学園エヴァの世界がある。特に学園エヴァに関しては本編公式の二次創作として評され、それを元にゲームが作られ、少年エースで漫画版が作られたりしている。そしてこの二次創作の世界観を元にさらにN次創作(濱野,2008)が作られていく。
4)ラカンは、世界というものを三つに分けている。それは、イメージだけで「他者」のいない<想像界>、言葉によって秩序づけられた<象徴界>、言葉にできないモノそのものの世界の<現実界>である。
5)代表的な作品として『最終兵器彼女』、『イリヤの空、UFOの夏』、『AIR』、『ほしのこえ』などがある。作品の特徴として自分の周りの世界(ラカンでいう<現実界>)と超越的なもの(<想像界>)とが「社会」(象徴界)を経ずして繋がってしまうような想像力を指す。
参考文献
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東浩紀『コンテンツの思想』2007年、青土社
大泉実成編『庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン』1997年、太田出版
大泉実成編『庵野秀明パラノ・エヴァンゲリオン』1997年、太田出版
五十嵐太郎エヴァンゲリオン快楽原則』1997年、第三書房
伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』2005年、NTT出版
宇野常寛ゼロ年代の想像力』2008年、早川書房
ウォルター・ベンヤミン高久久雄訳『ウォルター・ベンヤミン著作集7 文学の危機』1967年、晶文社
ウォルター・ベンヤミン佐々木基一編訳『複製芸術時代の芸術』1999年、晶文社
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大澤真幸『虚構の時代の果てに』1998年、ちくま新書
大澤真幸『不可能性の時代』2008年、岩波新書
斉藤環『文脈病』1998年、青土社
斉藤環戦闘美少女の精神分析』2006年、ちくま文庫
斉藤環『生き延びるためのラカン』2006年、バジリコ
ササキバラ・ゴウ『美少女の<現代史>』2004年、講談社現代新書
ジャック・ラカン『エクリⅠ―Ⅲ』1972年、弘文堂
ジャック・ラカン精神分析の倫理(上)(下)』2002年、岩波書店
J.Fリオタール『ポストモダン通信』1986年、朝日出版社
J.ボードリヤール『象徴交換と死』1992年、ちくま学芸文庫
スライエヴォ・ジジェク、清水知子訳『ジジェク自身によるジジェク』2005年、河出書房新社
スライエヴォ・ジジェク、松浦俊輔訳『仮想化しきれない残余』1997年、青土社
D.リースマン、加藤秀俊訳『孤独な群衆』みすず書房、1964年
土井隆義『友達地獄』2008年、ちくま新書
野火ノビタ大人は判ってくれない』2003年、日本評論社
宮台真司『終わりなき日常を生きろ』1998年、筑摩書房